~奇跡の松の由来~

先々代宮司・伊奈佐太男の遺稿です。

 

 太平洋戦争で召集を受けた私は、済州島に十ケ月ほど居て終戦を迎へた。二十年十月、送還されたが、敗戦の姿で我が家にかへつて見ると、神社も社務 所も焼けて、家内も子共も姿を見せない。茫然としてゐる所へ、氏子の一人が、家族の消息を教へてくれたので、やうやく寺に収容されてゐた妻子に会ふことが 出来た。

 早速掘建小屋を御境内の一部に建てて移り住んで、無け無しの貯金を費ひ乍ら筍生活をつづけたが、物価の騰貴に、忽ち生活は底を突いた。そこへ、例の神道指令である。もう、お宮の事をかまふ者はなく、神主の生活を心配してくれる者もない。俸給の出所も失ひ、進退きはまつた。

 妻子をかかへて、これから先、どうして生きて行つたらよいか、夜もねむれない日がつづいた。父の代から奉仕した神社だが、かうなつては、もう抛棄 して了つて、何か食ふ為の職業をさがさなけれは、親子が飢ゑて了ふ。然し、やはり、神さまを棄てるといふことは、神主として恐れ多く、決心がつきかねた。

 思ひあぐね、寝られないまま、起きて、御本殿の方へ歩いていつた。二月の末の真夜中で、寒い上に、小雪がチラチラ舞つてゐた。焼跡の焼瓦に、二度 三度躓き乍ら、闇の中を辿つて、本殿にいつて、しぱらくの間は、何を考へてゐたか、放心状態で、只拝んでゐた。ふと気がついた。さうだ、神様に掛合ひに来 たのだつた。掛合ふと云ふのは、今から思へば恐れ多いが、その時は、正真、掛合はうと云ふ思ひつめた気持だつた。神職らしくもなく、お祓も祝詞も忘れて、 まるで父親にものを云ふような気持で、自分が今思ひなやんでゐる事を訴へた。

 どう云ふ言葉で云つたか、おほえはないが、父の代からお仕へして、毎日お日供を欠かさずに御神徳宣揚を第一としてお勤めして来た。御神威のいやちこである事を確信してゐたが、戦争から還へつて見れば、御社殿はなく、家も焼かれ、氏子も塗炭のくるしみをしてゐる。敗戦につぐ神道指令の嵐に、神社の前途は全く見通しがつかず、氏子は、もう神さまは無いと云つてゐる。自分の力では、到底説得出来さうもないし、この状態では、御復興もおぼつかない。家族を かかへて、生きてゆかねはならぬ瀬戸際に追ひつめられた。一体どうしたらよいか、お教へ願ひ度い。神霊がおはすならば、お姿を見せて頂き度い。止つて御復興に尽せといふ御神示があれば、飢ゑて死んでも御守り申上げます。多分、こんな事を繰返へし申上げたのだと思ふ。

 そのうち、ふと思ひ出したのが、國学院大学神道学部在学中に教はつた管家後集の句である。天神さまが、「松は我が姿なり、我の至り留まる所必ず松を植ゑむ」と仰せられたと云ふ。私の奉仕する神社は岡崎天満宮、御祭神は菅原道真公である。菅家後集に、一夜に千本の松を植ゑられたとあるので、私も、 「どうか焼跡に松を生やして下さい。さうしたら、一人の協力者が無くとも私一人でお宮の復興を致します」と申上げた。

 こんな事を云つたとて、一夜に松が生えるだらうなどとは、正直のところ考へられない。でも、奇蹟でもあらはれて欲しいと願はないではゐられないほど追ひつめられてゐたので、そんな、夢みたいなお願ひを申上げた。

 そのうちに、私がゐないのに気がついた家内が、いつ迄も雪の寒空に身をさらしてゐる私の身を案じて、風邪でも引くといけないからと迎へに来たのでお祈りをやめて家に戻つた。身体が氷のやうに冷えてゐた。

 翌朝は、いつものやうに、朝早く起きて、焼跡の御本殿にお詣りに行つた。フト気がつくと、いつも赤黒い焼け土が、何だか様子がちがつて妙に青い。 オヤ、どうしたのかなと、顔を近付けて見ると、驚いた。焼跡に、長さ一センチばかりの、松の若芽が密生してゐるのである。境内くまなく見て歩くと、何百万本あるのか、一面に松である。私は、ゾーツとするほどの奇妙な感激に打たれた。まるで、雷に打たれたやうなはげしい感動である。

 人は、偶然と云ふかも知れない。然し、二月の末の、まだ、粉雪が降らうと云ふ空である。春の日がポカポカと照らして、若芽が吹き出すといふ季節ではない。私は、天神さまの奇蹟を確信した。

 もう、氏子の復興を待つだの、寄附金が出せるまで、このままなどと云ふ気持ではゐられない。仮本殿を建てる為めに、真つ黒に焦げた境内の立木を伐 る事にし、自分で伐つてそれを製材所に運び、板と柱にひいてもらつた。製材所に払ふ費用は、焼跡から拾ひ集めた銅板の屑を売つて、どうやら間にあつた。出来た板と柱で、仮本殿を組立てなけばならないが、大工の手間賃も何とか支払つて、やつと、間口六尺、奥行九尺の仮本殿だけは建つた。ところが、これでもう 費用が一ぱいで、鎮座祭を斎行する費用が無い。やむなく妻の衣類が二三点あつたのを売つて、五百円程の金を工面し、神酒と神饌をととのへた。この衣類は、 戦災の時に、家内が、生命からがら外へ抛り出してやつと助けた、生命から二番目の女の宝ものだつたが、因果を含めた。神道指令が出たばかりの時である。どうせ誰も来てくれる筈がないとあきらめてゐたが、鎮座祭には、町惣代が二十何人か参列してくれたし、思ひがけなく、五百数十名の参拝者もあつた。それが、 どの位、私を力づけたか知れない。

 どうして暮して来たかわからないやうな生活をし乍ら、何とか、この焼跡の仮本殿をお守りしつづけた。そのうちに、町も次第に復興した。神主ひとりで、神社のお守をしてゐる事に対して、同情してくれる人々が次第にふゑて来た。何とかしなければと云ふ声が出るやうになつて、積極的に協力して下さる方々が集まり、募金をしてくれて、小さい乍らも本建築の社務所が出来たのが、昭和二十五年九月であつた。ついで八年、流造り銅板葺二十五坪の立派な本殿が出来上つたのは三十三年九月である三十七年九月には、大きな斎館が出来、神社は見ちがへるやうな立派な復興ぷりを見せた。今は、拝殿の再建の準備を進めてゐるが、いづれ、遠からず完成を見ることと思ふ。

 あの時芽生えた小松はその後すくすくと伸びたが、御本殿御造営の際に殆ど全部、抜き取り、又は伐り取つた。その為、今は十本ほどしか残つてゐないが、大切にして、長く記念にしたいと思ふ。

愛知県岡崎市 岡崎天満宮々司
(昭和39年7月)

 

小野祖巨翁編著
祭式斎戒拾遺「祭の体験と規範」正編
道徳教育学会 発行
(昭和40年6月20日)より